最近、オッサンについての投稿をいくつかしたところ、意外と読んでいただけているようで驚いています。
みなさん、オッサンが好きなんでしょうか。
私はすでにアラフォーのオッサンですが、35歳を超える前は、オッサンと自らを自虐することはあっても心のそこから、自分がオッサンだと感得していたかというと、疑問が残ります。
オッサンというのは年齢的なものもありますが、こう否応なく感じ取ってしまうもの。
そして、周りがどう思っているかどうかは別として、ああオッサンになったなあ、ということを自分がどのタイミングで気づくか、というのはこれまた世間の評価とはまた区別のものなのです。
そんなわけで、今日のお題は、人はいつ、オッサンになるのか(感じ取るのか)
突然ですが、
私が、オッサンという生き物になった、と感じたのは、スキー場でした。
オッサンとはなにか、考えるな、感じろ、といった偉人は歴史上いたかどうかしりませんが、私はそう思います。
あ、これはもう、自分はあっちには戻れないな、そう感じる瞬間が必ずだれにでもやってきます。
そして、それは一度感じると、もうもとには戻れません。
感じる瞬間がいつおとづれるかは、人それぞれでしょう。
私の場合は冒頭で申し上げたとおり、スキー場でした。
10年ぶりくらいに訪れたスキー場。
そこにいる若者、それも大学生から社会人2~3年目くらいの若者が大量にいるのを目にして、これはもう完全に、自らのオッサンたるを悟りました。
ゲレンデのログハウスでウェアをはだけて談笑する若者を見た瞬間に「現役引退」という言葉が脳天に刺さりました。ガツンと。
なぜ、そう思ったのかは、定かではありませんが。
感じたのです。元気にカレーとか食って談笑している大学生をみて。これは、もうないわ、と。
村上春樹の小説「プールサイド」で35歳を人生の分水嶺にする男がいましたが、彼の場合はそれは自分で決めたことであり、自覚と覚悟は一体でしたが、私の場合はとくに覚悟もしていなかったところに、強烈に自覚させられたといったところでしょう。
あっち側とこっち側、というものを意識する瞬間というのでしょうか。
人はいつからオッサンになるのか、というのは難しい問題ですが、あっち側とこっち側、を強烈に意識したときに、人はオッサンになるのだと思います。
それは強烈なアウェイ感
自分はあっち側ではないな、と頭でも体でも心から実感した時、人はオッサンになります。
それを知らずに俺はまだあっち側だ、といって、自らのおっさん化を認めない人もいることはいます。
いやいや俺はまだまだ現役だ、と思っても、心のどこかでそれを否定する自分がいたり、だからこそ、自分はオッサンではないと言い聞かせているようではもう立派なオッサン。
分水嶺を飛び越えていたことを自覚する瞬間を一度でも感じてしまえば、その人はもう立派なオッサンなのです。
人によって、その分水嶺がいろいろあるなのは、その人の性格もあると思いますが、若い年代と接する環境かどうかも大きいでしょうね。中高の先生とか、わりと自覚が速いんじゃないでしょうか(;^_^A
そもそも、毎日普通に会社に通っていると、まぶしいほどの若さ、なんちゅうものを目の当たりにすることはあまりないので、気がつきにくいのです(新入社員などという高級な生き物はうちの職場にはいませんし、いたらいたで彼らはオッサンにやさしく寄り添い同化しようと忖度する生き物です、わりと)
しかし、
オッサンでることを自覚することは、それほど悪いことではありません。落ち着いたお店でゆっくりとした時間を楽しむのは、カレー食ってリフトにガンガン乗っている若者にはできる芸当ではありません。というかむしろ彼らには苦行です。
あっち側にはもどれませんが、こっち側はまだ始まったばかり。新しいおっさんとしての自分を楽しむ日々の始まりです。
よくないのは、その分水嶺を飛び越えてなお、向こう側にいるつもりになったり、戻れるのではないかと思うこと、そうすると、いつまでもオッサンというこちら側を楽しむことができません。
分水嶺を超えたことを実感する瞬間は人それぞれかもしれませんが、超えたと感じてしまったら、もう後戻りはできません。
おっさんの世界を楽しみましょう。
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