【雑文】レンタルなんもしない人 は勇者か人間の屑か

なんもしない人を特集したフジテレビのザ・ノンフィクションを観ました。なんもしない、というレンタル業と、それに対する色々な依頼があり、面白かった反面、やはり別居することになった奥さんと子供のことが気になるあたりは私もやはり常識に縛られたオールドタイプということになるのかなと思いましたね。

ネットでも別居の部分は賛否わかれたようです。

奥さんと子供をほっといて、スティーブ・ジョブズも育児には参加しなかった。新しい価値を作る人が家事や育児で制約を受けるとしたら残念、というのはなかなか斬新な主張でした。マイノリティが同調圧力に屈することなく生きている、その新しい生き方のモデルとして、レンタルさんはパイオニアなのだとおもいます。

レンタルが毎日入っていれば、食事もできるし泊まることもできる。衣食住もオッケイ。だから、彼一人ぶんであればなにも文句はない生きざまです。ただ、私としてはそこに共感できるのは彼が一人であれば、ですね。百歩譲って奥さんはまあいいでしょう。自分で選んだ相手ですし。しかし、子供はどうなのかな、それはすくなからず巻き込んではダメだし、取材とかしてる場合じゃないのでは?と思いますね。

あなたが逃げたことを結局奥さんにおしつけている。なんもしないどころか単にひどいことしてる、と。そしてそれは新しくもなんともないと。

あとはなんもしない、存在するだけでいい哲学的な存在を受け入れるには、それだけ豊かな社会が必要なわけで、一人くらいはいてもいいかもしれませんが、マジョリティになるとするとまた違った問題がでてきます。誰が電車を動かすのかとかね。カフェの店員がなんもしなかったらどうなるかとか。

ただ、難しいのは人間はそんなにズバリマジョリティとマイノリティに分けられるわけじゃない点です。なんかやってるひとも辛かったり投げ出したかったり、踏ん張りきれずになげだしちゃったり、そのときレンタルさんの生き方や在り方はたぶん救いになるはずです。それは間違いないと思います。だから、レンタルさんを否定することはどこかで自己否定につながることをわかっていないといけない、彼を否定できるほど大層な人間もまたいないのですよね。いや、彼は間違ってる、妻子を犠牲にする前に親としての責任を果たすべきだ!といってしまったら、彼に救われたはずのマイノリティやマジョリティのなかの弱さまで指弾することになる。私にはそこまでの覚悟はありません。

ただ、レンタルさんの生き方はとても極端で、極端だからテレビにでたり、話題になる、でも極端なものはモデルにはなりにくい、だから安易に真似しちゃいけない、とはおもいます。

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