1-1 モノを整理するという”幸福論”
モノがあっても幸福にはなれない
私たちはたくさんのモノに囲まれています。クリック一つで地球の反対側からでもモノが届き、お金させあれば、自分が欲しいモノをなんでも買うことができます。有史以来いま、日本という国に生きている私たちは地球上でもっともモノに恵まれた時代、地域を生きているといってもいいでしょう。
しかし、2005年の国勢調査で国民の97%が「幸せである」と答えたブータンと比べ、経済的に比較にならないほど豊かなはずの日本は自殺率が世界ワースト6位という結果。モノがあれば幸せかといえば決してそうではないのです。(モノが周りには満ち溢れているのに、自分には手が届かない、という不幸もあり得ます。しかし、そんな人の家がからっぽかというと、決してそんなことはなく、実はいろいろなモノにあふれていたりするものです。
これは手に入れれば手に入れるほどもっとモノが欲しくなる、よりよいものが欲しくなるから。モノ余りの国ならではの現象です。
では、なぜモノがあっても幸せにはなれないのでしょうか。物質的な豊かさは幸福につながらないのでしょうか。そもそも幸福とはどんな状態のことなのでしょうか。
フランスの哲学者アランは自著の『幸福論』のなかで次のように言っています。
人間が幸福なのは、何かを作り出すときだけである。<中略>人間は、あてがわれた楽しみには退屈するのであって、苦労して勝ちとった楽しみが大好きなのである。そしてそれ以上に行動して勝ち取るのが好きで耐え忍ぶのは好きではない。だから、行動を伴わない快楽よりも行動を伴う苦痛を選ぶ。
<中略>
できあいの快楽を受け取っているだけの主人(金持ち※編注)は、当然の成り行きとしていやな人間になる。
アラン著/村井章子訳『幸福論』日経BP社
人間は行動することで何よりも幸福を感じるもの。椅子に座って奴隷を意のままに操り、素晴らしい調度品に囲まれた金持ちはできあいの快楽を受け身で享受している限り幸せにはなれないとアランは言います。
21世紀の日本に暮らす私たちは程度の差こそあれ、まさにこの”主人”と言えます。居ながらにして様々な情報に触れ、ワンクリックでほしいものが手に入る。そしてそのモノを使いもせず(行動せず)ただ、そこに並べおくだけでは、アランが描く主人のように、決して幸せにはならないのです。