本を読む意味を考える―長谷敏司『あなたのための物語』を読みながら

本を読む意味とか、どこにあるんでしょうか。

休日はカフェや喫茶店で過ごすと安心します。

なぜなら、ここではまだほとんどの人が本を読んでいます。

本を読むというのも、いまではずいぶんと積極的な行為になりました。これは相対的に、ということであって、むしろひと昔前の喫茶店では、一杯のコーヒーで3時間ねばって仲間と議論を戦わせて、ということが積極的な行いとして評価される時代だったでしょう。でも、いまはスマートフォンによって、常時接続されたネット環境から、我々はいくらでも楽に、瞬間的に、時間を消費するためのコンテンツをダウンロードすることができます。

通信速度が上がっていますから、もうダウンロードしている、という意識すらなく、コンテンツを自分の端末で無尽蔵に(は言い過ぎですが、ひと月20ギガとなると、もう個人レベルでは無尽蔵でしょう)消費することができます。

また、食欲と違って、我々の好奇心には上限がありませんから、言葉通り時間の許す限り、細切れのコンテンツを楽しむことをやめられません。

本の内容も、まとめサイトが懇切丁寧に教えてくれます。いまではまだ、そのサイトを人が作っているのかもしれませんが、遠からず、あらすじを作成するくらいのことはきっとAIが人間よりも圧倒的にはやく正確にやってくれるでしょう。

だから、本を読む、というのはいうなれば「わざわざ」することになってきたように感じています。本を読むのは非効率、といってもいいでしょう。

その意味で、本を読む、というのは積極的な行為になった、と思うのですね。

そもそも、本を読む意味っていったいどこにあるんでしょうか。わざわざ本質ではない、無駄な情報をインプットして、自分の知的な体力を消費して、本質を読み取る「訓練」をしているのでしょうか。知的な訓練として、そういう価値はあるかもしれない。

ですが、抽象化して、本質だけにしてしまうと、意味がないジャンルがあります。

小説ですね。物語といってもいい。

本質、構成、オチ、抽象度をどんどんあげていくったときに、本に残るのって具体的な情報、無駄な部分です。探偵小説にしてもトリックはすでにでつくしているかもしれないけれど、そこに至る犯人と探偵の掛け合いや、探偵と助手の関係性、探偵のキャラクターなどの付加価値によって、我々は次々と新しいミステリーに手を出すわけです。

その付加価値の部分というのは、実際無駄な部分だったりする。

だから、物語をあえて読む、というのは無駄を楽しむ、具体的な部分に価値を見出すということです。キャラクター性、地域性、時代性、趣味性、その部分に無駄に価値がある。

本を読むというのは意外としんどいのですが、しんどい分、具体的でスピードが遅くて、無駄が多い分、その分だけの楽しみがある。

無駄というリッチさのなかに価値がある

シンプルというのは無駄がない、という意味だとすると、無駄ライフログにした方がいいかなとすら思います。

そんな私がいま読んでいるのは、長谷敏司さんの『あなたのための物語』。『BEATLESS』で興味を持って、この作家さんのほかの本を読んでみたいと思って手に取りました。

今度は人口神経制御言語・ITPで記述された仮想人格に小説の執筆をさせる科学者のお話。死を前にした科学者と、その仮想言語がつむぐ物語。まだ中盤ですが、SFらしい精密なディティールの積み上げで、死に向かう科学者の葛藤が重苦しいほどリアル。まとめてしまえば、数行の話でも、想像力で具体を積み上げていって、その結果として抽象化してしまった文章からは抜け落ちてしまう本質を感情に訴えかける

小説の醍醐味ですね。

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