幸せというものは現象ではなく印象である、とあの人なら言うだろう

あまりこういうメンタルなお話を書くのは好きではないのですが、最近の気づきとして、楽しいと感じることのレベルを下げる、もっといえば、細分化するといい、ということについてまとめておきたいと思います。

最近、何か楽しいことあった?とか、いいことあった?と聞かれて、即答できる人はどれくらいいるでしょうか。アドリブがきくきかないの問題以前に、そんなにいいことなんてそうそうない、という人も多いのではないでしょうか。

私も、最近、突然この手の振りを受けて、見事に絶句しました。もう振った相手が「ごめんなさい、そんなマジに悩むとは思わなかった」と引くくらいの絶句(;^_^A

しかも、それだけ絶句して考えたあげくが「う~ん、とくには」

相手にも気の毒なことをしました。

これを、ある人に共有したところ、いやいいこととか普通にあるでしょ。例えば「~」といとも簡単に。これがその方の名誉のために伏せさせていただきますが「今日電車でたまたま座れた」くらいの「いいこと」です。

それは「いいことに入るんですか」と思わず突っ込んでしまいましたが、入るかどうかではなく「入れる」というのは、一つの気づきでした。

普通に生活していると、SNSやネットなどで、自分よりも成功していたり、いきいきしていたりする人たちの情報が、これでもかというくらいに入ってきます(逆に、悲惨すぎる情報がこれでもか、と入ってきてしまって、変に安心する、という逆の問題もあるのですが、これはこれで別のはなし)

そうすると、どうしても、「いいこと」「うれしいこと」のレベルがどんどん上がっていく。当たり前の状況が、かなり恵まれているにも関わらず、その点が日常だと「0」と意識されてしまい、いいことが「なにもない」状況と認識されてしまう。

これはすごい危ない

数え上げれば、きりがないくらい。朝、家族と元気に挨拶をしたとか、電車に乗ったらいつものように座れて事故もなく出社できた、とか、いろいろな「いいこと」が身の回りにはたくさんあるんですね。

そんなもん、当たり前だ、という言われるあなたは、たぶんすごい人です。尊敬します。

ついつい、なんか最近いいことないな、と思う人、いや、そう思えたら楽だけど、それができないから苦労しているんだ、という賢すぎてつらい人も、それでもこの当たり前のことを、ぜひ一度、振り返ってみてください。

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