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生涯で決まっている「稼げるお金の量」
少し、俗っぽい話で恐縮ですが、ふと生涯年収というものを考えてみました。具体的な金額のお話ではなく、自分が稼ぎうる上限、という概念についてです。
サラリーマン(ビジネスマンと置き換えてもいいですし、誤解のないようにビジネスパーソンとしてもいいのですが)が将来にわたって稼ぐことのできる年収は、「人に雇われている」という性質上、おのずと上限があります。
年功上列であれば、各年代ごとの給与水準は決まってきますし、成果主義と連動した年俸制であったとしても、会社の給与制度の一環である以上はある一定の上限までしか増やすことはできないでしょう。
その珈琲一杯は、2億円-120円
その場合、例えば2億円であったり、1億5千万であったり、と個人によって違いはあるものの、「個人が一生のうちに手にすることのできるお金の量」というのは、勤め人でればおのずと決まってくるということになります。
さて、そんなことを普段わわわれは全く意識しないでお金を使っています。のどが渇いて缶コーヒー、時間が空いたから喫茶店。立ち飲み屋ではせっかくだからもう一杯。
そういった支出はすべて、生涯年収という上限から引き算され、確実に残高を減らしています。
生涯年収という上限から差し引かれたお金は、また稼ごうとおもっても、生涯年収以上稼がないのだとすれば、失ったお金はもう二度と手元に戻ってくることはありません。次に手にする給与も生涯年収から取り崩して手元にやってきたにすぎないからです。
よく「お金はまた稼ぐことができるが、時間は取り戻せない」という表現を耳にします。
生涯のフローをどう増やすか
そんなことはない、自分はバリバリ仕事をして、給与をどんどん増やすことができる。自分の意志でもっと稼ぐことができる。という人もいるでしょう。会社の人事制度によって、その可能性はもちろん否定はしません。フルコミッションの営業職の方などは、給与が青天井ということもあるでしょう。ですが、そういう方たちは、むしろこの場合は、フローを自分の意志で増やせる自営業者などと同じカテゴリーに入ります。
お金を手にするということは、何かと交換すること
それは時間であったり、才能であったりするのかもしれませんがそもそも無限のものではないはずです。
・お金も時間も使えば取り返しがつかない
そうおもうと、缶コーヒー一杯でも、買おうかどうしようか、ちょっとよく考えるようになりますよね。もちろん、120円、稼ぐ力を、昨日より今日、つけていこう、という努力のベクトルは間違っていないですし、日々の考え方としては、むしろそちらの方が正しくあるとは思うのです。
さらにいえば、金融市場で乗数的にお金が増えていくと、そもそも我々が一身で使い切れる範囲をはるかに超えて、身の回りからお金(という概念)が消える、という富豪さんの話も耳にしますが、
いつまでも拡大、拡大で続けていくことができないののも事実ですから、そのあたりについて、ちょっと考えてみた次第です。
お金は、自分のかけがえのない何かと交換して得た有限のもの。何に使うかはじっくりと考えたいものです。