私が小説を読む同期は、「楽しむ」ことです。それはそうだろう、みんなそうだろうと思うと思いますが、「楽しむ」といってもスリリングな展開を楽しみたい人もいるでしょうし、ホラーが好きで、ドキドキを楽しみたいという人もいるでしょう。楽しむといっても人それぞれです。私の場合は、主人公たちが幸せでいるところだけをみていたい、せっかく虚構の世界にお金を払って時間をつかって浸るんですから、悲しい思いやつらい思いはしたくない。登場人物のみんなが笑って、みんなが幸せで、どこにも坂道や関所もなく、初めから終わりまで幸せに続くストーリー。
でもそんなものは物語とは呼べないんですよね。結局、ハリウッド映画の構成を例にとるまでもなく、物語は山あり谷あり、緩急をつけて主人公たちに試練を与えます。仲間との衝突や親しい人との別離、社会的な無理難題、主人公を苛め抜いて、そこから立ち上がる姿を活写して、最終的にはハッピーエンドがお約束。
でも私の場合は、この途中の試練すら見たくないのです。仲の良かったひと衝突して、その結果として主人公が強くなったり結束が強まったりする。まるで正解を得るためには、成長を得るためには艱難辛苦が不可欠のような展開が嫌でしかたがないのです。
だから、最近ではハッピーエンドの小説ですら途中をすっ飛ばして読んだりします。
これは成熟した大人のやることではないなあ、と思うのですが、でも虚構の中くらい、誰にでも優しい世界があってもいいんじゃないか、誰も傷つかなくてすむ世界があってもいいんじゃないか、そう思ってしまうのです。
そんな私が、なぜ読んでしまったのか。平野敬一郎の「マチネの終わりに」。
主人公たちが割と年齢が近い、ということもあったのかもしれません。
割りと後悔しました。個人的には一番苦手な相思相愛の二人が運命のいたずらでこれでもかとすれ違っていく、というお話。もう、なぜと言われれば「小説だから」としかいえないような運命のいたずらで翻弄されるカップルを観ているのは本当につらい。
じゃあ読まなければいいじゃないか思うわけですが、最近知ったことばに「文学は問題提起である」という言葉があったんですね。平野さんは『日蝕』でデビューを果たした日本が誇る若手(なのかな、いまも)の文学者です。ということは、この「マチネの終わり」にもなんらかの問題提起が含まれているはず。それを読み取ることをせずに、ハッピーになれないからという理由で閉じてしまうのは正しくない、と思って最後まで読みました。
これはエンタメじゃない、これはエンタメじゃない、これはエンタメじゃない、という呪文を二百回くらい繰り返しながら。
本当に、ネタバレになるので深くは書きませんが三谷早苗という主人公のマネジャーには一ミリも共感できないし、物語を成立させるためのトリックスターだとしてもこいつのおかがで本を二度ほど壁にたたきつけたくなりましたが、これも文学これも文学とおもってぐっとこらえました。
で、結局どうだったのかといわれると、ちょっとわからない。
結局のところ、40代の恋愛について描きたいなら、問題を提起したいなら、やっぱりこんな状況やら悪意の第三者やらによって翻弄されて、引き裂かれて、それでも想いだけは残って、みたいな話にするべきじゃなかったように思います。
これなら別に20代でも成立する話じゃないかと。もちろん、フィアンセがいたり、すれ違っている間にお互いに子供ができて、というところで20代のような自由度がなくなっていくというのは理解できるのですが、お互い3回しか会っていないというのがやはりひっかかる。
結局のところ、これだけひかれあった二人が、実際に向かい合って、生活し、すれ違っていくという展開ならばもう少し納得できたと思います。しかし、二人とも自分以外の要因によってすれ違い、結局のところ5年の間に3回しかあっていない。それも極めて短時間。それをして、最も深く愛した人は、と言われても、これから続いていく生活をどうこなしていけるかで試されるわけであって、これでは40代の重さも知恵もあったもんじゃありません。
くりかえしますが、
この人たち3回しか会ってませんからね
理想の相手に出会えた二人が、素直に寄り添ってそのままの関係を築くことの難しさが40代にはきっとわかるはずです。それを踏まえて、それを成立させていく優しい世界だったら、私はエンタメとして読みたいし、それに失敗してすれ違っていくなら、そこで提起される問題をこそ読んでみたかった、そんな風に思いました。