近藤康太郎『おいしい資本主義』を読んで感じる違和感

Contents

オルタナ農夫、アロハで農業

近藤康太郎の『おいしい資本主義』を読む。

朝日新聞の記者である著者が、地方支局で勤務する傍ら、朝だけ田圃を耕し、米をつくる。その模様を描いた朝日新聞の連載『アロハで田植えしてみました』を単行本にしたものである。

オルタナ農夫として、毎朝1時間田圃でコメを作り、記事を書く。自分一人がくいっぱぐれないだけのコメをつくることができれば、人間は社会や会社からもっと自由になることができるというのが著者の主張だ。

あったかいおまんまに塩かけて食べられれば、毎日それでは栄養は偏るが、まあしかし、飢え死にはしやしない。まず、一人ひとりが、飢えないこと・これがすべてのスタートだ。そのための素人なりのオルタナティブな実践が、「一時間の朝だけ耕」でもあるのだ。

こうして、著者は毎朝1時間畑にたつ。ある時はアロハで、ポルシェのオープンカーを駆って畑に通う。師匠や親方大奥様など、農家の人たちとの交流もある。資本主義に対する半農の効用についての考察も新聞記者ならではで面白い。

確かに、一人で現地に飛び込んで、師匠を見つけてコメ作りをゼロから教わり、毎朝田圃に立つというのは並大抵のことではないし、実践としても面白い。

1人で食べるコメ1年分つくって「食える」は言い過ぎでは

のだが、この人は別にフリーというわけでもなんでもなく、れっきとした朝日新聞の記者である。嫌なことがあったり、意に沿わないことがあったらやめることができるというよりどころとして稲作をしているということになるし、それはそれで意味はあるのかもしれないが、米だけつくっても果たして生活できるものなのだろうか。おかずとビールはライターで稼ぐ、といっているし、農村はいろいろなものがもらえたりお金を使わないでもある程度の生活はまわるのかもしれないが、電気代、水道代、ガス代、ネット、もっといえば、家族ができた場合、彼らの食べるものはどうするのか。

いや、だから、それは本業のライターで稼ぐんだよ、というのだろう。

何をしても食べていける、その核心さえあれば、もっと気持ちも軽くなるというわけだ。

だが、果たしてコメ1年分つくれたといって、それが食っていけることになるのだろうか。

一人が食べることができる分のコメをつくれたからといって、それが何の解決になるのか、正直なところよくわからなかった。農夫になるわけではない。ただ、仕事をするくとが「食っていく」ということと直結してしまうことで「それをしないと死んでしまう」という死の恐怖から本来の仕事を解き放つために、農夫をする。そのロジックはわかるのだが、だから「食っていける」朝、田圃でコメをつくることでみんな食っていけるよ、というメッセージがあまりに明快すぎて、どうしても揚げ足をとりたくなってしまうところがこの本にはある。

本当に会社を辞めて、フリーライターで米をつくったら納得

どうしてだろうか、もっと素直に読めればいいのだが。競争から降りる。それも結構だ。「食っていくことのプレッシャーから人生をすり減らしている」そうなのかもしれない。

だが、新聞社で勤めながら、一人で1年たべるためのコメを作るだけで、食っていくに困らないとうそぶくのは、言説としてちょっと単純すぎやしないだろうか。そのコメを、書きたくないものを書かない、という職業人としてのプライドの最後の防波堤にするのは、いささか安易ではないか。

東日本大震災で、都市部でいくらお金があってもどうしようもないことがわかった。生きるためには、土が必要で、そこからの贈与によって人は生きていける。食べていける。それが労働の本来の姿ではないのか。それはわかるのだが、生きるということは、食べていくということは、衣食住を賄うということは、1年分のコメをつくることだけでは贖えない、大変なことであって、それを大新聞社の給料でまかなっておいて、オルタナ農夫といわれても、いまいちピンとこないのである。

関連記事

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク