あほんだら京大生が失恋して、それを乗り越えるまでのお話
といってしまうと、この本の魅力はおそらく万分の一もつたわらない。日本ファンタジーノベル大賞受賞作、といってしまうと、この作品の魅力はさらにわからなくなってくる。そもそもこの作品のどのあたりがファンタジーなのかと突っ込みたくもなる。
夢見がち、ということでいえば、主人公たちの妄想力は確かにファンタジーといえなくもないような気がするが。
この本の魅力は、大時代的な言葉遣いであり、たいそうな言葉を通じてるる綴られるあほんだら大学生のしょうもない自意識過剰なモノローグにある。
自らをふった後輩が、なぜ高潔で偉大な人物である自分を振ったのかという命題を究明する必要があるとうそぶいてストーカーまがいの行動をしてみたり、おなじくいけてない友人たちと世の中のクリスマス礼賛に毒づきながら鍋をつついてみたり。
私が大好きな主人公の畏友、鹿馬大輝の作中の演説を引用したい
諸君。先日、元田中でじつに不幸な出来事があった。平和なコンビニに白昼堂々クリスマスケーキが押し入り、共にクリスマスケーキを分け合う相手とてない、清く正しく生きる学生たちが心に深い傷を負ったのである。
過剰なまでの傷つきやすい自意識を、照れ隠しのようにおうぎょうな言葉で綴る主人公たちが憎めない、どことか愛してしまう、そしてついつい太陽の塔が見たくなり新幹線にのって大阪にまでいってしまった。
この小説をよんで、叡山電車に乗れば太陽の塔につくと誤解した人間はどれくらいいただろうか。あまりいなかったかもしれない。私だけだろうか。
とにかく私は、叡山電車に乗って、太陽の塔にいけるものだと思っていて、全然方角もなにも違うことを知ってずいぶんとびっくりした。
気を取り直して初めていった太陽の塔は、小説の描写で想像していたよりもさらに奇怪で、大きく、その後何度も訪れるようになった。会社の後輩すらつれていってしまった。
彼には大変悪いことをした。
あまりに面白いので、何冊か買って会社で配ったりもした。
そんなことをした本は、あとにも先にもこの本だけである。
誰かに勧めたくなる。
これを好きな人はきっと気が合うに違いないという気がする。そんな気分にさせてくれる本はあとにも先にもこの本だけである。
森見登美彦の『太陽の塔』の引力はすさまじい。