書店で本棚に座るじいさんになんと声をかければよいのか

よく、コンビニの前にたむろする若者、という表現を見たり聞いたりすることがあるだろう。

彼らは深夜のコンビニ前の地べたに座り込み、おそらく行く末の見えない日本社会にをいかにせんと、生産的な議論に時がたつのも忘れるほど夢中になっているのであろう。

そんな平成の志士ともいえる彼らに世間の目は冷たい。

しかし、しかしである。私は、断固彼らを擁護したい。あくまでも相対的に。

あれに比べたら、彼らとかほんとかわいいものですよ、と言いたくなる光景を本日真に当たりにした。

それは自宅近くの書店でのことである。

何かしら、月曜からの勤労意欲を刺激してくれる本がないかと、ふらっと入った私の目の前にいたのである。じいさんが。

その爺さんは健康系の棚で、平台の本の上にケツを乗せ、背後の本棚に深々と背を預けて、まさに本棚を椅子のごとくして悠々と座り、立ち読みならぬ座り読みを満喫していたのである。尻の下には新刊が積まれている。いな敷かれている。

それらの本を出すために著者が投入した時間、編集者の苦労、取次の努力、それを踏みにじられる書店員の怒りたるやいかばかりか。

二度見したあげく、三度見したが、じいさんは悠々とページを繰るばかりである。

もう、怒りを通り越して魂が震えた。

しかし、ここでじいさんを注意するのも腹立たしい。おそらく、注意した場合、じいさんは気分を害したあげく、悪態の一つもつくかもしれぬ。健康の棚で腰痛だかなんだかの本を読んでいるくらいだから、戦闘力としては5以下、ショットガン武装の農夫には劣るかもしれないが、油断は禁物である。逆上した挙句、切り付けてくるかもしれぬ。そもそもこのような性根の曲がり切ったじいさんを更生に導いたところで、私にメリットは一つもない。無駄に功徳を積んでも来世払いではどうにもならない。

では、店員に通報するのはどうであろうか。

私にはメリットはないが店員にとっては、わが子同然の本を尻に敷かれているのである。知ればカンカンになって怒り狂うかもしれぬ。しかし、その場合、彼らは一人の顧客を失うことになる。じいさんは、本を尻に敷いてはいるが、その傍ら熱心に本を読んでいる。単なる立ち読みかもしれないが、これを買う可能性はゼロではない。みれば杖を持っているし、もしかしたら本当につらいのかもしれない。もしかしたら、どこへとも行く当てもないかわいそうなじいさんであり、家にも安住の地はなく、心地よく安らげるのは本屋しかないかもしれぬ。

ここで、おもてなしの精神を発揮することで、本屋は一人の得難いロイヤルカスタマーを得るかもしれないのだ。では、どうすればいいのか。

じいさんと本屋のウィンウィンとなる提案である。

かのアドラー心理学では、因果で考えるのではなく目的で考えることを説くという。じいさんは本を吟味したい。しかし、足が疲れているのだ。そばには足を休める場所もない。平置きされている本の上しか、ロンリーな爺さんの尻を受け入れてくれるところはもうないのだ。

なんてかわいそうなじいさん。

そうだ、私が店員なら、こう提案する。

「お客様、お疲れですか?近くに椅子がなくて申し訳ありません。ほんの上に座ると、座りごこちもわるいでしょう。少し腰をうかしていただければ、平置きの本を少しどかしますよ。長時間はほかのお客様のご迷惑になりますが、少しの間でしたら、ここにこしかけて本を選んでいってください。」

どうだろうか。これならば、じいさんも感謝こそすれ、怒りをに我を忘れたスーパーサイヤ人のように襲い掛かってくることもあるまい。本屋もいたずらに角をたてず、本をこれ以上痛めるともない。

これだ!

と私が思って顔を上げると、じいさんはもうどこにもいなかった。

これが世にいう

時間がすべてを解決する、ということである。

また貴重な教訓を得てしまった。下手の考え休むに似たり、とか、ほかにもいろいろな教訓が引き出せそうな午後であった。

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