死後の世界を見た

僕は「死後の世界」を観た事がある。

そこのあなた、ブラウザを閉じないでいただきたい。

タブブラウザの方、そのクリック、ちょっと待って いただきたい。お花畑で花を摘んでいたら、川縁で 渡しのばあさんにかつあげされた、とかいう話では ない。


観たのは先週。そのとき僕は、社用車で納品中に居 眠り運転をしてうっかり右斜線を走っていた。 ほんの10秒ほどである。 ここは日本。そして、道路交通法に定められた天下の公道。

まあ、死んでも文句は言えない。

というか対向車がいれば、本の納品どころか 自分を納骨するはめになっていただろう。

ああ、今死んでもおかしくなかったなあ。

としみじみ思いながらハンドルを切って車線を変更した。

そして、眠気覚ましにFMヨコハマを聴いた。
知らないアーティストの知らない新曲が流れていた。
曲自体は恋するボーイミーツガールのJpopで、なんの 変哲どころか哲学のかけらもない、コンビニ弁当の ような曲だった。

ちょっと大きめのレンジで暖めてもらわないと食べ れないだろうなと思った。テレビとか映画とかそういった 熱量の強いレンジが必要だろう。Fヨコくらいじゃきっと 賞味期限は延びるまい。

しかし、

そのときふと思ってしまったのだが、 さっき死んでいたらこの曲を聴く事はなかった。

今この赤信号でも止まってもいない、横断歩道をわた っているばあちゃんを観る事も、これから納品先で ちょこっと引っ越しを手伝う事もなかったわけだ。

車の中でしみじみしてしまった。

嗚呼、僕はいま、「死後の世界にいる」と この認識はちょっと感動的だった。

正確に言えば もちろん違う。生きているのだから。しかしその 体験を通じて、いま自分が、彼の、彼女の死んで しまった世界、あの人の死んでしまった世界にた っているのだなあ、というしみじみとした認識が 新鮮だったのである。

そう思えば、この右折信号すら赴き深いではないか。
コンビニ弁当のようなこの曲も、一期一会の輪の中 で違った音を聴かせるではないか、ふむふむ。

この認識の新鮮なこと。
意味の光に輝いた世界のなんと美しい事。
死後の世界は何もかもが光り輝いて見える、という 宗教の教義は救済論ではなく、現世利益だったのか! と間違った方向に一人ごちたりもするわけである。

もとい 別に死にかける必要はない、旅、転機、恋愛、犯罪、 どれに手を染めても似たような感覚は味わえるに違 いない。まあ、一人で出来て、一番コストもかから ないほうほうが「死にかける」なんだけどね。

しかし、しかし、しかし、もひとつおまけにBut そうしたネチュラルハイの中で、納品をすませ、 仕事を終えて、残業をして帰宅する車のなかでは、 すでに何の感慨もなくウィンカーを出して
右折している自分がいたりする。

美しい世界は長く続かない。

日常と生活という化け物に襲われて あっという間に食い尽くされてしまうのだ。

この化け物はしたたかで本当に恐ろしい。
抵抗することは本当に難しい。

週に一度は死にかけてみることをおすすめする。
美しい世界ばかりでなく、
この化け物の怖さを実感することができるはずだ。

そして、この化け物とうまくつき合ったり、 退治することができる方法を見つけた方は、是非 ご一報いただきたい。

※という文章を2006年当時書いていた。その化け物とやらはいまももちろん、健在である。

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