祝90億突破!シン・エヴァンゲリオン劇場版 この傑作のどこに僕らは納得できないのか(ネタバレあり)

シン・エヴァンゲリオン劇場版

物語としてはこれ以上破綻なく、綺麗に収束し、終息したと思う。

破で、自身の願いのままに少女を救おうとして世界を壊し、Qですべてから疎まれた少年が、大人になった友人たちに迎えられ、無条件に自分を受け入れてくれる存在と別れ、初恋に区切りをつけ、父親と対決する物語。イマジナリのなかではなくリアリティのなかで立ち直った碇シンジ。自分が泣いても他人を救えないと言って泣かなくなった碇シジン。ラストでは14年の歳月を埋めるように、一気に大人になり(声変わりして)マリもかわいいよなどという碇シジン。二人が現実に宇部新川の駅から駆け出していく姿は、これまでの新世紀エヴァンゲリオンというレールの上を走る列車から降り、現実へと飛び出していくメタファーにも通じる。

綾波レイは最後に張りぼての赤子を抱いて現れる。綾波シリーズは第三の少年に好意を持つようにプログラムされていたという設定に違和感を持つ人もいたかもしれないが、もともと彼女は綾波ユイの似姿として、シンジを受け入れる役まわりを持っていた。私が守るといった序からの展開は母親の母性のそれと読み替えるとすっきりする。そしてシンエヴァで湖のほとりで絶望するシンジのところに通い続け、食事を置いていく、そして時間が来たら消滅してしまう。シンジはここで母親のアイコンとの別れを済ませて立ち上がったといえるのではないだろうか。

式波アスカは、この世界では惣流アスカのクローンだった。使徒に取り込まれたとき、好きだったシンジに救ってもらえなかったことに傷つき、彼のいない14年間で新しい心のよりどころを見つけた。彼女は別れ際にシンジに好きだったと告げ、シンジもラストであのとき好きだったと告げる。初恋をしっかりと終わらせて、彼女を送り出す。結局すれ違ってしまったけれど、14年前に思いは交わっていたことを確認し、二人は新しい一歩を歩みだす。

カヲル司令は、ちょっと頭が追い付いてない。かなり説明的で、作り手側の解釈の余地がけずられた(その意味でもわかりやすい映画だった)本作の中で、珍しく考察の余地を残す部分かもしれない。ただし、カヲルはエヴァのある世界のなかでシンジを幸せにすることに固執していた。それに失敗し続け世界を繰り返していた存在であることが明かされた意味は大きい。そんな彼に「父さんと似ている」といって、自分はエヴァのない世界をつくる、といったシンジに、自分は間違っていたのかもしれないと告げるカヲルもまた、シンジとエヴァから解き放たれ、新しい世界に旅立つ。

彼らの姿は新創世された世界のなかで、シンジがいるホームの反対側にみつけることができる。アスカは一人きりだが、これからケンスケのところにいくのかもしれない、カヲルとレイは楽しそうに話している。エヴァのいる世界ではともに母性と父性のようにシンジを見守ってきた二人は、消えてしまった、ユイとゲンドウの似姿として、案外仲良く暮らすのかもしれない。

そして、シンジを迎えにくるのはマリ。冬月にイスカリオテのマリアと呼ばれた少女だった。イスカリオテは裏切り者の名前、当初はゲンドウや冬月と行動を共にしていた彼女が最終的にヴィレとして対立したことを揶揄したものだろう。本来はマグダラのマリア、イエス復活を告げ、イエスの妻となる女性。

彼女が新世界でシンジのもとに現れ、エヴァ世界最後のくびきであったDSSチョーカーを外したことは、シンジがエヴァ世界から完全に解き放たれた象徴といえる。

そして冒頭に書いたとおり二人は現実世界の中を駆け出していく。エヴァのない世界に。

以上

いかがだろうか、物語の流れとして、一人の少年が葛藤し、絶望し、大人になるまでのストーリーとして、序破Qの伏線を見事に回収し、ある意味では論理的にまとまっている。意味づけがわかりやすく、説明がしやすい。その意味で理解しやすい作品になった。そしては私のなかでエヴァという作品のラストとして、ここまでの完成度を作った製作陣には本当に尊敬と感謝しかない。

そして、そのうえで、何に納得できないのか、その点はここまで言ってしまえば明白なのだ。きっと私以外のこの結末にもやっとしているかつてのチルドレンの皆さんも多分そう。この結末以上のものはたぶんない、ないけれど「綾波と、アスカと幸せになってほしかった」そのどちらかなんじゃないかと思う。論理的に考えて、この二人とシンジが結ばれてしまうと物語のメタファー上はきれいに終わることができない。母性をひきずり初恋にこだわる。もちろん、それもいい。ただし、監督はそれを許さなかった。そのために綾波タイプはシンジを好きになるようにプログラムされていた、という設定を追加し、感情を持たせた黒綾波を爆散させて(綾波は綾波だとシンジに言わせたうえで)退場させた。アスカにはケンスケという新しいよりどころを用意した。

この流れで、シンジはこの二人のヒロインを選ぶことは物語上難しくなる。ただ、それでもなんでマリなの、という感情的な違和感がぬぐえないというのが本作に納得できない人がいる最大の理由だろう。マリってユイが好きだったんじゃないの、という突っ込みもある(貞本エヴァ)。その息子だからいいのか、それともあのラストの軽口とやり取りだけでカップリングを想像する方がDT的な考え方なのかどうなのか、それはそれで異論もあるだろう。しかし、どんな理由であれ、この25年の大きな時間の中で育ってきた作品のラストでシンジが手を引く相手は「〇〇」がよかった、と思う人はおそらくこの映画に心から納得はできないのだ。(お前それだと結局、おっぱいのでかいいい女が好きってことで終わっちゃいませんか!?と.)

そして、世の男性陣は、自分がそうであること=おっぱいのでかいいい女が結局好きなことを棚にあげてピュアに煩悶する.

だからこれは本作が問題なのではなく、いわゆる「ビアンカ・フローラ」問題なのだと思う。25年間苦楽を共にしてきた人と、なんだかんだいっても結ばれてほしい、推しが幸せになるところをみたかった。たったそれだけの個人的な感情なのだと思う。

物語としてのシン・エヴァンゲリオンは100%正しい着地点にたどり着いたと思う。そのなかで見る側の個人的な感情の整理がついていない。正しいけれど、納得はできない。

自分が14歳のころ、こじらせた分だけ、このシンエヴァンゲリオンは正しく、理解しやすい分、心から納得できない。「なんで、マリなんだよ、ってわかるけど〇〇がよかったよ」そんな煩悶を我々に残して、見事に物語として、完膚なきまでに終劇してしまったのだ。

冬月的に言えば、あとは君らのすきに、よしなにやってくれ、と

いやいや、おみごと。

ちなみに私は綾波派でした。

でも、赤ん坊の張りぼてを抱いた髪の伸びた綾波と、けなげに農作業する黒綾波が見れたので、

よしとする、よしとしたい、よしとしければ、よしとしろ。

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