友人に、お前いまさらカナダグースはダサいだろ?と再三いわれるのですが、暖かいのだからしょうがないじゃない、と言っています(;^_^A
そもそも、
カナダグースを買った理由は、一言でいえば、寒かったから。
そして、極寒のカナダでも暖かいと言われている機能性に期待したから。
そして、なんと、この巷でダサいといわれているワッペンの差し色がちょっといいなと思ったからで、その意味でいえば、超ダサい人間といって過言ではないのです(;^_^A
ただ、ちょっと不思議なことがありまして。
でもこのワッペンってずっと前からついてましたよね?
それこそ、カナダグースが一握りの、それはもうおしゃれな人たちしか着ていなかったころから、着いていたわけです。しかし、そのとき、なぜかこのワッペンはダサくなかった。つまり、これを着ている人間が増えてしまったことで、このブランドと、それを象徴する赤丸ワッペンの価値が棄損されてきたということなのでしょう。
これは、ちょっと面白い現象です。
ブランドの面白さといってもいいでしょう。
つまり、ブランド信仰には、
知る人ぞ知る、というのが、いいんだよ、という価値観があるわけです。
例えば、ヴィトンのバックを女子高生が持っている、けしからん。とか、そもそもセレブでもなんでもない人間が持つようになってしまうと、そのモノが持っているブランド価値が棄損されるという考え方があるわけですね。
これは、理解できますが、一方で不思議な感じもします。
少し前までは、そのブランドを持っていることが、何らかのステイタスであり、その品質やデザインがなんら変わるものではないにも関わらず、それを持っている人間が広範囲にわたるようになったとたんに、ブランドそのものの価値が下がっていく。ブランドというのはそもそも希少性と一体のものということです。
そのデザインや機能性とは、実はそれほど関係性がない。どの層の人間に受け入れられており、どこの層の人間が知らないか、もしくはどの層まで届いてしまえばもう、それは、ダサいのか。
いずれにせよ、ダサいかダサくないかという問題は、1つには、カナダグースをどれだけの人が着ているか、そして、それを見たオシャレと言われる人たちがどう思うか、ということにかかっており、実際には私のコントロールをはるかに超えた問題なので、考えること自体が無駄な問題なのです。
それでも、あえて言うなら、このワッペンが流行の最先端(言っていて寒い)だったことも考えると、こういうしかないでしょう
カナダグースがダサいのではない、私がダサいのだ。
と(;^_^A