さて、それではネタバレを含む感想です。
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長い長い殺人
この小説の最大の謎は、事件当時、完璧なアリバイのある、
被害者の妻が、どうやって夫を殺したのか?
とう点にあります。
もう、序盤から怪しさ満載なうえに、登場人物もごく限られているので、
妻が怪しいのは間違いない。
しかし、毒殺された夫に薬物を混入した珈琲を飲ませることができる手段は次々と捜査の過程で消えていき、
事件当日妻に何かができたとはどうしても思えない。
事件当日、妻はなにもしていない。
そうなのです、何もしない、
妻は何もしないことによって、
夫を殺害することができたのです
そこに、この事件の最大のポイントがあります。
なぜなら、
毒は、
1年以上も前に、
綾音によって浄水器の中にしかけられていたからです。
子どもができないなら別れよう、という義孝の話は、実は二人の「結婚前」になされた話であり、もともと妊娠できない体だった綾音は、もし、夫が宣下通りに自分を捨てるようなことがあれば、その時、夫を殺そうと決心し、1年以上前に浄水器の中に猛毒の亜ヒ酸を仕掛けておいたのです。
聖女による「救済」
逆にいえば、
夫が自分を捨てない限りは、彼を殺さない(これを小説のなかでは「夫を救済する」という表現をします。だから聖女の救済なのですね」)という誓いをたて、結婚生活をスタート。
その間、彼女は絵にかいたような良妻として、常に夫をサポートし、食事に気を配り、決して夫をキッチンに近づけません。また健康志向の夫はペットボトルの水を愛飲しており、常に冷蔵庫にそのストックを切らさないことで、彼女は夫、そしてそれ以外のどんな人間をも、「浄水器」に近づけないことで、
夫を「守って」いたというわけです。
しかし約束の時は来てしまう
しかし、その後、夫は綾音の教え子であり仕事上のパートナーとなっている若山宏美と不倫をし、妊娠させると、一向に妊娠しない綾音に別れ話を持ち掛けます。
その結果、ついに綾音は殺害を決意し、家をあけ、夫を一人にし、いつも買い置きがあるはずのペットボトルの水も少なくなっていたため、義孝はついに浄水器を使い、毒を飲んで死亡。
何もしない殺人
つまり、これまで、夫を守ってきた自分が家をあけることで、「何もしないこと」で夫を殺害してしまうのです。本人は何もせず、実家に帰省し、何もしないことで鉄壁のアリバイをつくる。ですから、事件前後の彼女の行動をいくら警察が捜査しても「不自然な点」は一つも見つからなかったというわけです。
それまでやってきたことを、
逆に「しない」ことで殺人が成立する
という逆説的なアイデアがこの小説の肝なわけですね。
巧みな叙述トリック
しかも、叙述トリックとして、冒頭に子どもができないなら離婚しよう、というシーンが、「現在の時間軸」として読んでも違和感がないように、非常にうまく書かれているため、読者は「離婚を切り出された綾音が夫を殺そうと思ったのは家をあける直前」と思いこまされてしまいます。
それが心理的なバリアとなって、「1年以上細工がされた形跡のない浄水器」という状況証拠とあいまって「綾音には毒物を混入することができない」と思いこまされてしまうのです。
この描写の流れは非常に巧みでした。
とはいえ、残る違和感
推理小説としては高い完成度があり、ハウダニットとしては読者に適宜情報提供もなされておりフェアで読み応えのある作品です。
子どもができなかったら1年間で別れよう、と結婚直前の恋人に切り出す、変わり者のIT経営者もいなくもないかもしれません。
そもそも、この1年、というリミットこそが
義孝が綾音との生活をジャッジ(判断)するための期間であり
綾音が義孝をジャッジ(裁く)ための期間
であったからこそ、この小説に描かれたトリックは生きるのであり、
その異様さが際立ちます。
が、
そこまでこだわるなら、なぜ、結婚前に調べない???
子どもができない女と付き合うなんて無駄なことに時間をとられたくない、公言してはばからないほど、「子供をもつ」というライフプランに忠実な男が、結婚する相手に対して「1年間夫婦生活を続けて子供ができなかったら別れる」などという手間のかかることをするでしょうか。
そもそも自分自身は子供ができるからだかどうかを医療機関で調べてもらっているような男性です。伴侶となる女性に前もってそんな宣告をするくらいなら、同時に医療機関にいって不妊かそうでないかを確認するはずです。
綾音は先天的に子供のできない体であり、その宣告を結婚前に受けたときに、「いずれは捨てられる」ということを理解し、毒を仕込んだ、という設定なのですが、
この点の義孝の行動だけは理解できません。
他にも細かいテクニカルな疑問はあるのですが、(なぜ鑑識は綾音が家に戻って浄水器の水で花に水をやり、証拠を隠滅する前に浄水器から水を採取して調べなかったのかなど)この違和感がもっとも大きいものでした。
そこまでこだわるなら、調べるでしょ、
結婚前に!
というのが読み読み終わると同時に、突っ込みたくなってしまう、トリックの根幹にかかわる部分ですし、そこはいまでも疑問です。
しかし、それ以外は文句なしで★★★★ですね。