イモ洗い地獄(市営プール)の中で考えた

市営プールは今日も盛況である。入場制限も始まっており、このプールに入ることができる老若男女は360名に限られているそうな。

幼児用、子供用、大人用のプールはイモ洗い状態であり、すでに泳ぎにきているのか、見知らぬ他人とスキンシップを楽しみに来ているのかわからなくなる。

子どもに至ってはすでに浮輪にあき、ビートバンに飽き、双方をお父さんに丸投げである。浮輪とビートバンをもって浮遊するおっさんにとくに人権はない。

無情なものである。

このように、子どもができると、親という生き物は自動的に自らを最下層に置くため、(もしかしたら置かないたくましい親御さんもいらっしゃるのかもしれないが、欧米と違って、日本は、家族の呼称を「一番下の子に合わせる」という風習からして、この傾向が顕著ではないかと思う)子供を連れてのレジャーでは親というのはかくも疲弊するのである。

これでは、ビートバンと浮輪をもって、赤の他人とスキンシップするために市営プールに来たようである。

しかし、ここで立ち止まって考えてみれば、自分で湖などに乗り出して、数々のリスクを乗り越えて、誰もいない湖で親子二人、とかでもないのだ。

500円なりを払って、水遊びをするという選択は確かに、イモ洗いの刑に処せられるくらいは安易なのだろう。反省した。

人生は、やった分だけのことしか返してこない、という教訓をあらためて確認した。イモ洗いプール。価値あり。

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